マーケティング論レポートサンプル


こんばんは、論文代行の書ける屋です。今回はマーケティングで使えそうなレポートサンプルを公開します。「マーケティング」は身近によく聞く言葉ですが、語源や広がった背景などは意外と知られていないですマーケティング論の卒論やレポートを代行する際に、依頼主さんに質問することもありますが、本当に全然答えられない分野でもあります。逆に、こうした部分を知っていることで、論文執筆の際に深みを出すことができるようになります。

アメリカでマーケティングが発達した理由は、南北戦争後の生産力の急激な拡大に対して、それらを消費する市場が限られていたからである。そのため、過剰な生産力を生かすために、新たな市場を作る(market+ing)ことが必要で求められていたのである。そして、企業が市場の需要と供給を調節する必要に迫られ、様々な試みがなされたのである。また、アメリカは国土が広いにも関わらず流通機構が整備されるのが遅れたため、その状況の中で事業を営むため、生産側が広告等で顧客に働きかける必要もあった。
歴史を見ると、南北戦争後、鉄鋼脈、銅鉱脈、銀山などがつぎつぎと開発され、製鉄業をはじめ経済を支える基幹産業の基盤が築かれた。また、鉄道建設も進められていった。これによりアメリカは、膨大な生産力を生み出すことになったが、それによって産出される生産物の市場の方に目を向けると、当時の海外市場は、列強による植民地の領土分割がおおむね完了していた。そのため、アメリカの生産者は、自らの生産物を国内市場で販売することに重点をおく必要があった。
しかし、当時のアメリカの国内市場は、1890年代のフロンティア消滅によって限られていた。つまり、海外への市場開拓に当初から制約が加えられ、国内市場の拡大がほぼ限界に達するといった状況で、急速に拡大された生産力を前にして深刻な市場の問題が起こった。
アメリカでは1873年と93年の恐慌を間に挟み、彼ら起業家はほとんど10年ごとに深刻な不況や恐慌に見舞われるという経験をした。こうした状況の下で諸企業は、自らの生産物価格の安定維持を求めて、部分的には需要サイドに働きかける努力も含めて、相互に激しい競争を展開し、費用上の優位性と独占度の増大を求めて、積極的に新しい技術や科学的知識の取得とその産業化に腐心した。しかし、その結果、彼らの意図とは裏腹に、それぞれの産業市場において一層の生産規模・生産能力の拡大、したがって一般的過剰生産状況のさらなる深刻化に直面し、ここに、独自の問題としての市場問題の解決が緊急の課題として強く意識されるようになった。

以上がマーケティング論レポートサンプルになります。

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文学レポート「桃太郎と四人の力士の比較」の解説


論文代行の書ける屋です。前回の記事でお見せした文学レポート「桃太郎と四人の力士の比較」の解説をします。

1 テーマって何?

文学作品の比較は、極端に言うなら、「どんなところが似ていて、どこが全然違うのか」を明らかにすれば、ほぼおしまいです。もちろんまったく異なる作品を二つ並べても比較対象にならないですが、ある程度ストーリーなり時代背景が似ているのであれば、比較検証する価値が出てきます。

2 登場人物の場合分け

どの文学作品でも登場人物は複数出てきます(中には自叙伝のように例外もありますが・・・)。今回の桃太郎と四人の力士では、主人公とその他の登場人物に分けて書きました。

3 主人公の共通点

ざっくばらんに、ハッピーエンドなのか、バッドエンドなのかを分類し、ハッピーエンドならどんな終わり方なのかを把握します。桃太郎は皆さんご存知の通り、経済的にも家庭的にも幸福が訪れますし、四人の力士でも同様です。

4 脇役の共通点

多くの物語では、読者が感情移入する対象なので、脇役の処遇や微妙なことが多いです。桃太郎でも四人の力士でも微妙ですよね?論文としては、主役と脇役の格差としてまとめるのも一案ですが、今回は「彼らが主人公と出会わなかったらどうなっていたのか?」という観点から論じました。経済的にも家庭的にも彼らにはメリットがほとんど見当たりませんが、「主人公と出会えたからこそ、能力を発揮する場があった」という議論を提示しています。

5 違う点

二つ以上の文学作品を比較すると、異なる点はいくらでも出てきます。どこに切り口を当てるかで深みに天と地ほどの差が出ます。桃太郎と四人の力士でも細かい点では異なる点だらけですが、日本と朝鮮半島という地理的要因に焦点をあてました。

この地理的要因は、卒論やレポートを書く際に非常に便利です。半ばコジツケととられる場合もありますが、読者がなんとなく納得してしまう効果があります。他の分野でも生かすことができますが、「日本は海に囲まれていて、逃げ場がない」「大陸なら、どこへでも逃げていける」こういった地理的側面は書くだけで字数も膨らませますし、新たな視点を論文に持ち込めるのでおすすめです。

以上が、今回の解説になります。

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桃太郎と四人の力士

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文学レポートサンプル「桃太郎と四人の力士の比較」


卒論代行・論文代行の書ける屋です。文学の論文テーマということで、「桃太郎」と朝鮮半島の「四人の力士」を題材として論文サンプルを公開します。文学で卒論を書く際には、海外のものと比較するのもオーソドックスな手法です。様々な作品を比較することで、従来の研究では見いだされなかった発見が出てくることも多いからです。

では、以下サンプルです。

「桃太郎」と「四人の力士」を比較するにあたって、まずはあらすじを紹介する。

「桃太郎」

むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました。おばあさんが洗濯していると、川上からどんぶらこどんぶらこと、大きな桃が流れてきました。

(内容をご存知の方が多いので中略)

鬼ヶ島に向かう途中、犬が出てきて「一つくださいきび団子。お供についていきましょう。」 次に猿が来て「一つくださいきび団子。お供についていきましょう。」今度はキジが飛んできて「一つくださいきび団子。お供についていきましょう。」犬、猿、キジの3匹は桃太郎の家来になり、船に乗って鬼ヶ島へ向かいました。

鬼ヶ島で酒盛りをしていた鬼たちに、犬はかみつき、猿はひっかき、キジはつっつきました。桃太郎は金棒を持った鬼の大将をやっつけました。「もう悪いことはしないか。」「もうしません。」

鬼が悪いことをして集めた宝物を車に積み、犬が車を引き、キジが綱を引っ張り、猿が後押しをして持ち帰りました。

「四人の力士」

 一人の力士が姫の救出を目指して旅をしている。途中4キロ離れた木の葉にとまっている蠅に弾丸を命中させる力士に会い仲間にする。また風より早く走れる才能を持った力士に会い仲間にする。次は台風を自由に起こさせる才能を持った力士に仲間にする。

 その後、魔法使いの怪盗に会い、走り競べに誘われる。風より速く走れる力士が担当するが、途中で居眠りをしてしまう。銃をうつ力士が枕に命中させ、やっと勝利をおさめた。怪盗は四人を閉じ込め、火をたいた。しかし、台風を起こす才能を持つ力士のおかげで無事に出る。怪盗の頭は最初の力士と激闘をして首を切られる。姫を救い出したことで、王様は最初の力士を婿にした。

桃太郎も四人の力士も道中で個性的な才能のあるものを仲間にし、倒すべきものや目標のために冒険をする。そして、褒美を手にするのは、最初に目標を立てた桃太郎と最初の力士という点も共通する。

これらのストーリーから見えるのは、当時、自分から何か事を始めた人が得られるメリットの大きさである。自分から何か事を成し遂げようとする人のもとには、必要な人材が集まり、最終的には目標を成し遂げられる、というメッセージが両方の物語にこめられている。それと同時に、リーダーに追従するものにとっての最大の報酬は、名誉や資産ではなく、その才能を発揮する場が与えられることであるという点も共通している。

桃太郎では、犬はかみつき、猿はひっかき、キジはつっつくという才能を発揮して桃太郎の目標達成に貢献した。だが、かみついたりひっかいたりつっつくという能力は日常的にはほとんど役に立たない。本来ならば「きびだんごを恵んでもらえる」ほどの価値はない。

四人の力士では、4キロ先に弾丸を命中させたり、走る才能や、台風を呼ぶ才能も、日常生活で生かされる機会はほとんどない。桃太郎や最初の力士に協力して貢献したにも関わらず、たいした褒美を得られなくてかわいそうだと見ることも可能だが、彼らにとってかわいそうなのは、ずっと「才能を発揮する場がなかった」ことではないだろうか。桃太郎では、きびだんごすら桃太郎と出会うまでは恵んでもらえず、四人の力士の他の三人の力士は才能を発揮する場所すらなかった。もし、優れた桃太郎や最初の力士のようなリーダーと出会わなければ、彼らは何もなすことなく埋もれていたであろう。そう考えるならば、彼らは「才能を発揮する場」という最高の報酬を手にしたと見ることも可能である。

その一方で、リーダーであった桃太郎と最初の力士は莫大な報酬を手にする。これは、打ち立てていた目標の大きさによるのではないだろうか。大きな目標を打ち立て、その実現のために周囲を巻き込み、苦難を乗り越えて成功するにはふさわしい報酬だと、物語の作者だけでなく、両国における読者たちの支持が積み重ねられてきた証しだと筆者は考える。

では次に、桃太郎と四人の力士の差異に着目する。桃太郎では、猿もキジも犬も、最初にきびだんごを恵んでもらったことで仲間になった。そのため、適切な仕事をし、能力を発揮した。それに対して、四人の力士では金銭や物のやりとりが見られない。無報酬だったのである。そのため、速く走れる力士はあろうことか途中で居眠りをしてしまう。寝てしまう、という行為から、最初の力士のミッションへの情熱を感じていなかったのではないだろうか。また、そのミッションへの情熱のためには、金銭なり物なり、何らかの要素が必要だと考えられる。

それから、重要な差異として、倒すべき相手に対して自発的に向かっていったのが桃太郎なのに対し、四人の力士では倒すべき相手が向かってきた点が挙げられる。桃太郎には、最初から鬼という倒すべき相手が思い描かれていた。だから、道中で動物たちを餌付けしてでも仲間に引き入れた。それに対して、四人の力士では倒すべき相手が最初は見えていなかったのではないだろうか。もし相手が声をかけていなかった場合、話が成立しなかったであろう。この点について、筆者は島国で逃げ道がない日本と、大陸で逃げ道ならいくらでもある朝鮮半島の歴史の差異があると考える。目の仇がどこにいるか、日本ではわかる文化なのに対し、朝鮮半島では必死に探して見つけ出すなど、幸運に頼るべき部分があったのではないだろうか。そのため、四人の力士は、相手に声をかけられるという千載一遇のチャンスを生かすという筋立てになったのだと考えた。

(サンプル、以上)

次回の記事では、上記サンプルの解説をします。

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文学レポートサンプル「桃太郎と四人の力士の比較」の解説

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「一人前ではないものの人権~日本国憲法とマイノリティの哲学」解説編


昨日公開したレポートサンプル「一人前ではないものの人権~日本国憲法とマイノリティの哲学」の解説をします。政治系のレポート課題では、課題図書が難解だったり、論文として形にまとめるのが難しかったりします。

1 課題図書の全体像の把握

まず、課題図書が提示されたら、全体像を把握しましょう。今回のテーマは、「アイヌ民族、在日韓国・朝鮮人、先天性身体障害者、ハンセン病患者、宗教的少数者の人権」ですね。

全部読んでテーマを把握することがまず無理だけど・・・」そんな声も聞こえてきますが、「目次とはじめの部分」を読み飛ばしていませんか?とりあえず目次に出てくる単語を拾い読みするだけでも、何について話をしようとしているのかはわかります。

こうした課題図書の要約の際に大事なのは、インプット完了後にアウトプットするのではなく、読みながらどんどんアウトプットすることです。

「なぜ?そんな器用なこと・・・」と思った方は、まだまだこれからです。全部読み終えたあとにレポートをまとめようとすると、最初の方の内容を忘れてる経験はありますよね?また最初から読み返していたら、レポート課題の完成にさらに時間がかかってしまいます。ですから、印象に残ったことや大事だと思ったことは、箇条書きでもいいからどんどん書き出していきましょう。

2 各章の内容把握とアウトプット

全体像を把握したあとは、一個ずつまとめていく作業になります。

アイヌ民族、在日韓国・朝鮮人、先天性身体障害者、ハンセン病患者、宗教的少数者

と、順番に何が書いてあったかまとめます。3000字のレポートを一気に書き上げるのは難しいですが、「1つの項目について500字程度にまとめる」のであれば、難易度はぐっと下がります。また、一冊を丸々読まなくても、1つの章を読みこんでまとめるのであれば、負担も減ります。

3 最後に感想やまとめを書く

とは言え、難しい課題図書をまとめるのは大変ですよね?筆者の後書きやおわりにを参考にしましょう。その意見に対して「僕は賛成だ」「私は納得できない!」という意見や感想があれば、だいぶ書きやすくなります。賛成なら筆者の論拠を補足する身近な事例を見つけるだけでも効果的です。反対意見も、同様な手法をとれます。

以上の方法を用いれば、難しい課題図書を指定されたレポートも比較的負担なく書き上げられます。

 

 

 

 

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レポートサンプル「一人前ではないものの人権~日本国憲法とマイノリティの哲学」

レポートサンプル:「一人前」でない者の人権~日本国憲法とマイノリティの哲学


レポートサンプルを公開します。今回は、政治をテーマにしました。

今回のお題は、課題図書「一人前でない者の人権」を要約しながら意見を述べるです。政治や法律、人権を卒論のテーマにされる方にとって、日本におけるマイノリティに着目するのも論文のオリジナリティを出すうえで効果的な方法の1つです。
アイヌ民族、在日韓国・朝鮮人、先天性身体障害者、ハンセン病患者、宗教的少数者といった様々な「不利な立場の少数者」は、「法の支配」ではなく、「管理的指令の支配」に服し、不利益を被ってきた。しかし、彼らが直面する不条理な現実を扱った研究は存在しなかった。その背景には、日本国憲法をめぐって、「有利な立場の多数者」である「われわれ」と、「不利な立場の少数者」である「かれら」という潜在的な分類が行われていたことが考えられる。
「かれら」は「多様」な存在であり、日本国憲法によって権利も保障されている。それにも関わらず「不利な立場」であるのは、「法」が憲法の規定と両立せず、「ズレ」や「ねじれ」というコミュニケーションの「歪み」が存在してきたからである。
アイヌ民族は、「土地」をめぐるコミュニケーションの「歪み」によって、人権侵害状況に置かれることになった。1898年の北海道旧土人保護法や戦後の自作農創設特別措置法などによって、彼らは「法の支配」ではなく、「管理的指令の支配」に服すことになった。これらの法律は、アイヌ民族の理解を得る努力もなされずに実行されたため、公布性要件、明晰性要件、服従可能性要件、態度随伴条件等に違反する。その根底には、注視されてこなかった価値観の違いがある。日本人にとって土地は「財産」であったが、アイヌ民族にとっては、「アイデンティティの基盤」であった。こうした違いや日本人の無関心から「土地」をめぐるコミュニケーションの「ズレ」が生まれ、アイヌ民族に対する人間疎外が深刻化したのである。
在日韓国・朝鮮人は、「国籍」をめぐるコミュニケーションの歪みによって、深刻な人権侵害状況に置かれることになった。サンフランシスコ講和条約は「日本の侵略主義の結果を侵略前の状態に戻す」理念であったが、結果的には「日本国籍を剥奪し、その権利が否定され、差別的処置が合理的である状態」に戻すことになった。
先天性身体障害者は、「優生」と「環境」をめぐるコミュニケーションのズレによって人間疎外に置かれることになった。環境基本法が「現在および将来の人間が健全で恵み豊かな環境の恵沢を享受するとともに人類の存続の基盤である環境が将来にわたって維持されなければならない」という理念を掲げているが、「先天性身体障害児童等の不良な子孫が出生しないように」という優生保護法の価値前提と結びつくことで、先天性身体障害者への差別につながっている。本来ならば、「環境保護運動に携わる人々の主観的善意が、先天性身体障害者等の排除という権力志向に転じていくこと」を断ち切るために、「障害者でいる権利」や「病弱である権利」を承認した上で、環境保護法や環境保護運動の理念や目的を彼らの視点から問い直すことが必要なのである。
ハンセン病患者は、「愛国心」をめぐるコミュニケーションの「歪み」によって、人権侵害状況に置かれた。ハンセン病患者は、「日の丸の汚点」という「国辱」意識と富国強兵政策によって、撲滅が図られた。その根底には、愛国心の観点から民族浄化を目指す優生思想があった。らい予防法には「ハンセン病患者の医療を行い、その患者個人の福祉を図る」という理念があるが、「らいを予防することをもって、公共の福祉を図る」ことに置き換えられ、病気を阻止するのではなく、弱いハンセン病患者を社会的に撲滅することになった。
宗教的少数者は、首相の靖国参拝をめぐる訴訟で、コミュニケーションのねじれによって人間疎外に陥った。大阪地裁判決では、慰謝料の請求という形式面の背後に違憲問題があったが、両者の矛盾によって斥けられた。福岡地裁判決では、形式的には被告が勝訴するが、裁判官が「応答可能性としての責任」を果たすべく、憲法解釈をめぐる蛇足部分で原告を利することになり、議論となった。こうした宗教的少数者は「国賊」として扱われ、現在では国旗・国家法が制定され、彼らの良心の自由や信教の自由が侵されることになっている。
以上の者や、知的障害者や認知症患者のような「主体」または「人格」として「一人前」でない者にも、日本国憲法は「人権」と「生存する権利」を保障するものと考えるべきである。
しかし、「土地」「国籍」「優生」「愛国心」を「管理する者」が、「一人前」でない「管理される」者を抑圧してきたのには、「民主主義の促進」「侵略主義の否定」「人間の進歩」「公共の福祉」の美しい理念を示す言葉が実態を隠蔽してきたからである。こうしたコミュニケーションの「歪み」を正していくためには、「合意なき共生」を「共生なき合意」に先行させる必要がある。
さらに、日本国憲法自体を政治権力と人民という「管理的指令」に改正しようという動きもある。そのため、北海道旧土人保護法やらい病予防法等の廃止に目を奪われるのではなく、「われわれ」は常に政治権力を批判的に見続けなければならない。

以上が、レポートとなります。テーマもかたいものなので、レポートの雰囲気もややかためになっています。レポートの解説は次の記事でお伝えします。

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「一人前」でない者の人権~日本国憲法とマイノリティの哲学解説

 

幼少期のスキンシップ~サンプル解説


サンプル論文の解説をします。サンプルとしてあげた「幼少期のスキンシップ」はこちらへ

1冒頭部
 幼少期の子どもにとって、スキンシップはどのような影響があるのだろうか。また、幼少期におけるスキンシップの量は、子どもが成長していく過程で、本人の成長にどの様に影響していくのだろうか。

まず問題提起ですね。これはレポートでどのような問題文を出されているのかに合わせて変更頂ければ問題ありません。

2具体的な事例を出して論点を絞りに行く

日本では一般的に、触れない(スキンシップをあまりしない)育児方法を行い、情緒的なものを子どもに与えるべきではなく、理性的判断に基づいて接するべきだと言われる。
 (中略)
 例を挙げると、子どもが何かいいことをしたときの「ご褒美」としてのスキンシップだ。

レポートの質を高めるには、身近な事例やこれまでの見聞を盛り込むことが重要です。また、具体的な経験を冗長に書くのではなく、端的にまとめつつ、「他の場面でも当てはまるよね?」と抽象化すると説得力が増します。

3 背景説明

この背景には、他にも人前でのスキンシップやボディランゲージを恥ずかしいものとみなす考え方もあるからだ。

2で挙げた抽象化です。日本の文化や価値観を盛り込むと、採点者も納得してくれます。

4 調べたことや知っていることを論じる

この定義に当てはめると、日本で一般的に言われている育児方法は、①を大きく制限するため、子どもと母親(もしくは父親)間のコミュニケーション方法が限定されることになる。

(中略)
幼少期からのしつけの一環として「情緒的なものを与えるべきではなく、理性的判断に基づいて接するべき」というのも一理あるし、文化的な根拠もあるのだ。

論文やレポートのコツですが、どちらかの立場に立ちたいとしても、反対意見の根拠も示しておくと、自身の立場を説明する際に、「相手の意見も分かったうえでの反論」が効果的にでき、論文としての価値が高まります。

5 自分の立場を表明して根拠も述べる

こういった背景や意見がある中で、私は、幼少期のスキンシップは育児に対し重要であるから、抱きしめる、さするなどのスキンシップを積極的に行いながら接するべきだと考える。その根拠となる私の考えは2つある(以下略)。

今回のサンプルでは前置きが長く、自分の意見を表明するまでだいぶ時間がかかっていますね(笑)。ですが、しっかりと状況を理解した上での立場表明となっているので、一般的なレポート課題であれば問題ありません。

また、自分の立場を表明するだけでなく「根拠は○点ある」と述べたうえで、それぞれの根拠を述べていくと読みやすくなります。

以上が解説になります。今回のサンプルは他のテーマでも応用がきくので、ひな形としてのご利用はご自由にどうぞ(ただし、そのままコピペすると学校にバレるから、それはやめてくださいね)

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論文サンプル「幼少期のスキンシップ」


論文代行の書ける屋です。今日は論文サンプルとして、幼少期のスキンシップをテーマにとりあげます。子どもや教育関係の学部にいる方にとって、「スキンシップの重要性」は卒論や修論でも取り上げられる論点といえるでしょう。

サンプル課題 「幼少期のスキンシップについて論じなさい」

サンプル論文
幼少期の子どもにとって、スキンシップはどのような影響があるのだろうか。また、幼少期におけるスキンシップの量は、子どもが成長していく過程で、本人の成長にどの様に影響していくのだろうか。

日本では一般的に、触れない(スキンシップをあまりしない)育児方法を行い、情緒的なものを子どもに与えるべきではなく、理性的判断に基づいて接するべきだと言われる。
例えば、
「あまり抱っこばかりしていると抱きグセがつくから良くない」
「早く子どもを親から自立させるために、小さい頃から独りで寝かせるクセをつけよう」
といった具合に育児の現場では伝えられている。つまり、子どもが母親に甘えてしまい、離れられなくなることを心配しているのだ。また、「理性的判断に基づいて接するべき」ということは、子どもがスキンシップを求めても積極的には応じず、「何らかの理由」があるときにだけ応じる、ということになる。例を挙げると、子どもが何かいいことをしたときの「ご褒美」としてのスキンシップだ。
この背景には、他にも人前でのスキンシップやボディランゲージを恥ずかしいものとみなす考え方もあるからだ。特に、欧米におけるスキンシップと比較すると、日本人のスキンシップは少ないものと言えよう。
「人はなぜスキンシップをとるのだろうか」という理由は
①普遍的かつ確実なコミュニケーションの手段として用いるから
②人間の本能だから
と考えられる。

この定義に当てはめると、日本で一般的に言われている育児方法は、①を大きく制限するため、子どもと母親(もしくは父親)間のコミュニケーション方法が限定されることになる。人が言葉もしくは言葉らしきものを話すのは、1歳~2歳の頃からである。従って、言葉を話せるようになるまで、子どもは母親と言語を用いないコミュニケーション方法を取るより他ない。具体的に言うと、顔の表情を変えることや、泣くこと、そして、スキンシップの3つである。これら3つのうち1つの方法、つまりスキンシップを制限することで、親子間のコミュニケーションが減ってしまうという問題がある。ただ減るだけではなく、コミュニケーションの質そのものも低下してしまう。また、コミュニケーションにおける言葉の役割はたった2割とも言われている。残りは何で補っているかと言うと、実はスキンシップや身振り、表情なのである。日本での育児方法には、言外に情緒的ではなく理知的な子どもを育てようというものがあるかもしれないが、言語の役割が2割であることを考慮すると、決して効率的とは言えまい。そこは、やはり恥の文化の影響も大きいと考えられる。だからこそ、これは大きな問題ではなかろうか。
また、②で言うところの本能も必然的に抑えることになる。もちろん人間社会において全員が本能をむき出しにしては成り立って行かないから、幼少期からのしつけの一環として「情緒的なものを与えるべきではなく、理性的判断に基づいて接するべき」というのも一理あるし、文化的な根拠もあるのだ。

こういった背景や意見がある中で、私は、幼少期のスキンシップは育児に対し重要であるから、抱きしめる、さするなどのスキンシップを積極的に行いながら接するべきだと考える。その根拠となる私の考えは2つある。1つ目は、幼少期の子どもが日常生活から受けているストレスを解消するため。2つ目は、子どもたちへ存在感を与えることが社会的な問題を解決する上で有意義であるからだ。
まず、前者について。人間は触れられるとオキシトシンという「安心ホルモン」と言われるものが分泌される。これは人との信頼関係を築くのに重要な役割を果たしている。幼少期の子どもは、私たちが考える以上に日々ストレスにさらされている(注1)。私たちにとって当たり前のことであっても、子どもたちにとっては当たり前のことではないということが多々ある。見るもの・聞くもの・触れるもの・経験するものに対して大きな刺激を受けているのだ。当然そこにはストレスもある。そのストレスを解消してあげられるのは、やはり家族であり、スキンシップが有効な手段なのだ。また、オキシトシンという「安心ホルモン」はねぎらいの言葉や励ましの言葉をかけられても分泌するが、抱きしめられたときの方が、圧倒的に分泌量が多いのだ(注2)。

(以下サンプルのため省略)

注は下記より引用

1 国際スキンシップ協会HP「スキンシップの語源」
2 「スキンシップと癒し」

さて、論文やレポートとしてのイメージはつかめましたか?詳しい解説は次回の記事で述べます。文章の難易度は人それぞれなので、このサンプルの難易度ではなく、雰囲気や、どういうストーリー展開にしているのかといった点に着目頂ければと思います。

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日本の気候に着目した卒論考察の展開


連休中に台風が来ることで話題になっていますね。

日本の歴史を振り返ると、台風などの天候は大きな影響を与えてきました。そこで、今日は卒論のテーマとして、天候や気候に着目した考察についてお話します。

「いったいなんだそれは?」と言われる気しかしないのですが、「日本の歴史」「文化「食文化」「庶民の生活」「文学」など、幅広い卒論のテーマで天候や気候に着目した考察は使えるのです!

1 飢饉について

「恵みの雨」という言葉があるように、雨が降らないと米がとれず、その年の日本の食生活は大変なことになります。今の時代であれば、天気予報やアメダスのおかげで、どんな天気になりそうかはなんとなくわかりますし、研究も進められています。でも、昔の日本では古典的な天気予報(雲の形、動物の様子)しかなかったわけですし、雨が降らない理由がなんなのかがわからなかったわけです。

例えば、雨が降らないのは「トップが悪いからだ」「仏様のバチがあたった」といったように、現代では考えられないような理由がまかり通ったわけです。

つまり、当時の天候が不安定だったという記述をみつければ、そこから、文化や宗教に結び付けることが可能になるのです。

2 国内の戦いについて

平安時代末期の平氏と源氏の戦い、戦国時代の合戦など、日本では多くの戦いが繰り広げられてきました。現代の戦争でも天候が与える影響は大きいですが、昔の戦いではもっと影響が大きくなります。身近な例を挙げると、雨の中の山道を歩くのは、地面がぬかるんで大変ですよね?しかも、戦いの際には何百人、何千人もがぬかるんだ道を歩いたり走ったりするので、それこそ前に進んだり後ろに下がったりするのも大変だと予想されます。

ほとんどの戦いは、数が多くて準備万全な方が勝ちます(例外もありますが、桶狭間の戦いのように数が少ないです。なお、桶狭間の戦いも近年ではいろんな研究事例が報告されています)。ですが、この「数の量」を逆転する要素の一つが天気だったわけです。

教科書にも出てくる元寇では、「神風」として台風が決定打を与えたと認識されている方も多いでしょう(ご存知の方もいますが、近年の研究では、天候以前に日本側が相手の上陸を防ぐための工夫や成果が多く報告されています)。

このように、天気に着目するだけで、論文には新たな視点が盛り込まれます。

以上です。行き詰った方はぜひ試してみてくださいね。

卒論代行ってバレるの?


こんにちは。卒論代行の書ける屋です。先日お会いした依頼主様から「卒論代行を頼んだことってバレるの?」と質問を頂きました。

依頼主様への回答を申し上げる前に、まず、「人に代筆してもらったのはどうやってバレるのか?」という仕組みから説明します。

卒論指導のゼミがある場合、教官の方から質問をされます。また、学科によってはみんなの前で卒論発表をしたり、口頭試問が設けられたりする場合があります。論文代行を依頼された方にとっては、「口頭試問」と聞くと不安を覚えるかもしれません。ですが、初めて論文を書く人の口頭試問は「自分で書こうが人に手伝ってもらおうが、先生方からは徹底的に叩かれても仕方ない」というくらいヒドい場合が多いです。

これはどういうことかというと、何本も論文を投稿されている教官の方から見たら、初めて卒論を書く学生の内容や回答は「穴だらけ」なのです。ですから、口頭試問できっちりと答えきれる学生の方が珍しいのです。

しかしながら、教官の方の質問に全く何も回答できなかったり、不自然な態度をとったりした場合、そこから教官の方に疑念が生じる場合があります。「この生徒は本当に自分で書いたのか?」と。

そこで、書ける屋では次のようなフローを経て執筆にあたっています。

1 依頼主様の構想や集めた資料の有無を確認

→依頼主様が何を研究されたいのか、どんな構想を持っているのかを必ず聞かせて頂いております。そのうえで書ける屋から論文のストーリーや構成を提案しています。こうすることで、論文の根幹となる部分が、依頼主様の頭の中でも整理されます。つまり、論文の根幹さえしっかりおさえられていれば、教官の方からの質問攻めにも太刀打ちできるようになるのです。

また、依頼主様の集めた資料がある場合、そちらも用います。これは、依頼主様が目を通したことのある文献を用いることで、他の人に論文の内容や調べたことを話しやすくなるからです。

2 中間原稿の送付とフィードバック

書ける屋では、期日まで時間がある場合には中間原稿を送付しております。中間原稿をあらかじめ読んでおくことで論文のイメージを持っていただくことも重要です。ですが、これだけでなく、途中経過を説明する場合や、教官の方に進捗状況を説明する際にも重要な意味を持ちます。教官の方は、最終的にできた原稿だけを見て評価するわけではありません。原稿ができるまでにどうやっていたのか、どんな話をしていたのかも当然評価対象です。これは少し考えたらイメージがわきますよね?

「突然2万字の原稿ができたとしたら、どんな方法を使ったの?」

ですから、書ける屋では途中原稿を読んで頂くことで、依頼主様の研究内容への理解を深める手助けもできればと考えております。

以上が、書ける屋の執筆の流れとなります。重要なのは、論文代行を依頼したらほったらかしで原稿を提出すればいいというものではないということです。途中原稿を読んで内容を理解したり、参考文献にも目を通したり、ゼミで教官に内容を説明したりと、やるべきことは多々あります。

こういったことに依頼主様も取り組んで頂くことで、「本当に研究したかったこと」への理解も深まりますし、論文代行を依頼したことが「うしろめたさ」ではなく、「塾のようにヒントをもらった」に変わるのです。実際にこれまでの依頼主様も、原稿を読みながら理解を深め、口頭試問も無事に乗り越えられてきました。

以上です。「卒論を書いてもらったらバレるのではないか」という不安をお持ちの方も、当社からの原稿や参考資料をじっくり読んで理解を深めて頂ければ幸いです。

論文代行業者をどう選ぶか?ー焦って失敗しないために


卒論・論文代行の書ける屋です。

今日は依頼主様との打ち合わせで興味深い話を聞かせて頂きました。

卒論や論文を頼まれる際に、様々な基準で業者を見られる方がいますが、その中でも重要なのが連絡先です。

これまでに実際にお会いした依頼主様が書ける屋を選んだ理由は、「電話がつながった(他はつながらなかった)」「論文のテーマを話しただけで方針が回答されたから」「メールで返事がすぐにきた」といった理由から、「直接お会いして話ができるから」といったものまであります。

さて、論文代行業界はなかなか表に出てこないので、実は私も他の業者のことはよくわからないところもあります。なので、実際にいろんな業者に問い合わせられた依頼主様のお話から学ぶことも多々あります。

今日お会いした依頼主様からのポイントは、

1 住所も電話番号もわからない代行業者は不安

2 直接会った方が論文の要望も正確に伝えられるのではないか

ということです。

これまでの依頼主様にも、「電話番号も住所も記載がない卒論代行業者さんは不安だった」「住所がバーチャルオフィスっぽかったから怪しい」「対面での打ち合わせを拒否された」といった話をうかがっております。

論文を依頼されたり相談されたりする方は、例外なく「人生の節目」にいらっしゃる方です。論文を見てもらうにあたって、不安や心配も枚挙ありません。そういった依頼主様の状況を鑑みると、直接会って話もできなければ、電話も通じないというのは依頼主様にとってのリスクが大きすぎるとしか言えません。過去に「論文代行の詐欺にあった」とご相談された依頼主様が代行を頼んだのは、まさに「電話番号も住所も記載がない代行業者」でした。

「人に文章を書いてもらうのは悪いこと」だと考えられている方もいらっしゃいますが、国会における答弁や、様々なスピーチ、スポーツ選手の著書など、私たちの周りでは「人に文章を書いてもらう」事例は数多く見られます。

資料集め、構想、実験データの収集など、人それぞれ得意不得意は当然あります。「頭の中でもやもや」としていることを、第三者が文章化することではじめて「言いたいことが明確になった!」という依頼主様もこれまでに多く見てきました。ですから、第三者の視点で「もやもや」を文章にすることは有意義なのです。

しかしながら、率直に言って怪しい代行業者のせいで、人生の節目にある依頼主様が被害をうけたり、騙されたりすることもあって、論文代行業が悪いイメージを持たれがちなのは由々しき事態です。また、締切に余裕なく焦っている依頼主様が値段や検索順位だけで依頼する代行業者を選定してしまう事態も問題だと考えます。そういう意味では、「論文でお困りの方の目に当社がもっと触れるようにすべきだ」という課題でもあります。

以上です。論文代行を検討されている方は、締切に追われて焦っていたとしても、きちんとした業者を選ぶようご注意いただければと思います。

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